飯 沼 慾 斎

江戸の昔、亀山の城下に一人の植物学の魁が生まれた


yokusai 飯沼慾斎(1783-1865)は1783年(天明)、亀山の西町、西村信左衛門守安の次男として生まれました。
幼名を本平と言います。長じて守之、のちに長順と名乗りました。慾斎は号。
 父、信左衛門は美濃大垣の生まれでしたが、亀山にいた弟の西村源兵衛守城方を頼って来勢し、叔父が青木門近くで営んでいた店で働きました。
 

 本平少年は利発な子で、12歳のときに大垣にある母の実家へ赴き、母方の親類である漢方医飯沼長顕に弟子入りをしました。
 
  その後飯沼家の娘、志保の婿となり飯沼家を継いで、名も飯沼長順と改めます。
そして、京都に遊学して漢方医学を修めましたが、当時、本草学(植物学)では日本一と言われた小野蘭山に入門しています。 大垣に帰って医者として飯沼家を守っていましたが、28歳のときに、大垣の蘭学者・江馬蘭斎の紹介を受けて江戸に上り、松阪出身の蘭方医・宇田川榛斎(本姓は安岡 杉田玄白の養子になったが訳あって去り、宇田川の名を継ぐ)の弟子となりました。

  榛斎門下には、佐藤信淵、緒方洪庵、箕作阮甫などの俊英が集まっており、榛斎自身は蘭学を大槻玄沢に学んでいますから、慾斎は司馬遼太郎の世界に身を置いていたわけですね。(笑)
 
  江戸で蘭学を修めて大垣に帰った慾斎は、医者として評判を得ましたが、彼の人脈系列なら当然に出てくる?人体解別も弟子とともに行いました。これが岐阜県で初。
しかし、49歳になると家督を義弟の飯沼長栄に譲り、自分は別荘の平林荘に隠居しました。
そしてそれ以後の約30年間、隠居所で植物学の研究に没頭し、そこで著したのが『草木図説』です。

 生物の分類は、スウェーデンのカルル・フォン・リンネによるリンネ分類法にもとづいて行われますが、日本で初めてこの方法を用いて体系的に作られた植物図鑑が慾斎の『草木図説』でした。
現在も大垣市の史跡として保存されている平林荘の庭には、日本各地の植物だけでなく、外国の植物も含み、数百種の草木が栽培されていました。また、地元の伊吹山を始め、みずから各地に植物採集に出かけており、今も多くの標本が残されています。

 漢方医として薬草に取り組み、蘭方医の修行を経て日本で初の植物学者となった感じですね? 余談になりますが、慾斎が江戸で蘭方を学んだ宇田川榛斎の養子、宇田川榕菴(大垣藩医、江沢養樹の子)は日本で初めて化学について体系的な書を著し、酸素、水素、酸化、還元など今も使われている化学用語は彼の訳語です。また榕菴の養子に.。



飯沼慾斎生誕跡



亀山城跡の飯沼慾斎生誕地の碑


城跡から誕生地方面を望む。

野呂元丈
 飯沼慾斎より90年前の元禄6年(1693)に生まれ、本草学で名をなしたのが野呂元丈です
彼は旧勢和村、今の三重県松阪氏波多瀬に生まれ、21歳で親戚の医師野呂三省の養子となり、京都で儒学・本草学を学びました。
 当時は紀州領という関係から紀州藩に出入りし、藩主吉宗が将軍となると、幕府の採薬師に取り立てられ、薬草を求めて日本全国を訪ねています。

  元文4年(1739)八代将軍吉宗のお抱え医師となり、翌元文5年、薩摩芋で有名な青木昆陽と共に蘭学研究を命ぜられ、その後の慾斎たちの時代の蘭方医興隆の基礎をつくました。

 地元にはこれを称えて薬草を中心とした公園施設「元丈の里」があります

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